重ねて言うと、かえって怪しまれるが・・・・・今回の遠征の目的は、スキーではなく古民家村の訪問である。
目的地は、南会津町の「奥会津地方歴史民俗資料館」。
ここには、資料館に併設されていくつかの古民家が移築されている、という。古民家村というのは私が勝手につけた表題なので、正式名称ではない。
スキーを午前中に済ませて、来る途中に看板が出ていた資料館を目指す。
が、食堂など期待できない、ましてはコンビニなどない土地だから。スキー場のレストランで、サンドイッチを買い込んで車中食べながら向かう。
20分ほどで到着。
常連さんならご存知の話だが、例の知り合いの実家の古民家維持のために、何らかの資料やヒントがないかと出かけてきた。
資料館も興味はあるのだが、それは次回に廻すとして茅葺屋根の古民家を見て回ることにした。
大きな住居と思われる建物が3軒。その他に、水車小屋や作業小屋と思われる建物が移築されている。
一軒目に入る。ここは農業の他に、運送業を営んでいたらしい。
当市、旧今市市は、日光へつながる日光街道の宿場町であった。近隣の郷のには、物資の運搬のために、農耕馬を回り番で、定期的に拠出することが義務つけられていた。農家にとっては、使いたい時に馬が駆り出されてしまい、大変な負担だったと思う。
同じように日光と会津若松を繋ぐ会津西街道の街道筋にあたるこの郷では、労役馬の義務つけの他に、自由に運搬馬の営業をすることが認められていたようだ。
物流の多寡に応じて即座に対応でる体制であったわけだ。その馬は所有上限が6頭までと決められていたという。
それにしても江戸時代に農家が馬を複数もてる、というのは驚きであった。
当市は、二宮尊徳終焉の地である。飢饉で離農が相次ぐ今市地方に、幕府の要請で送り込まれ、命をかけて農業基盤整備に尽力した。
日光の手前にありながら、そんな危機的な郷であったのに、会津西街道、というどちらかと言うと難所が多くて、東北の大名も参勤交代の際迂回したほどの裏街道でありながらの農家の力量の差が感じられびっくりしてしまう。
雪深くあっても、当時の地力の差が感じられる農家の家の作りである。
具体的には、玄関をはいると、右側に馬屋があるのは当地と同じ構造であるが。当地が1-2頭分位のスペースしかないのに、会津の運搬業をしていた農家の作りは、当然4-5頭入る位に広い。
さらにその裏手には、居間の囲炉裏の他に、もうひとつ囲炉裏があったのだ????。
説明をさらに読むと、馬で運搬といっても、一緒に人夫がついて歩くわけで、その人夫の控室であったという。
写真は全景と、控室の囲炉裏。
コメント
初めまして。
関連記事から来ました。
記念に足跡残していきます。
ペタリ。
訪問ありがとうございます。全国には、古民家にかかわる多くの方がいらしゃる、と知りました。勉強させていただきます。