熊野古道なんて二度と来るものか

LIFE

拙い熊野古道紀行文に一週間付き合っていただきましてありがとうございました。

そう言っておいて・・・今更なんなんですが・・・。

本当に楽しくない旅でした。

建設用の機械ができて、鉄路や道路が日本中に巡るようになってまだ百年余です。その前は熊野古道同様の街道が主要な(国)道でした。誰もが自分の足を頼りに、踏分道を進んで移動してました。日光にも、山の裏側の集落や、県境の向こうに繋がる古道はあります。

しかし使われなくなっても百年。その多くの道が山(獣道)に戻りつつあります。熊野古道が他とちょっと違うところは、参拝者が多かったことや、御三家紀州藩の政策もあり、石畳化(舗装化)そしてその維持のために何百年も人力が投下され続けたことです。

その甲斐あって、使われなくても現在までその道は多く現存しております。

二年前「中辺地」コース、今回「伊勢路」コース。ちょっと離れておりますが、同じ紀伊山地を縫う街道でしたので、ある意味似ております。際限なく繰り返す登っては下り・・・・・・・。

山中には茶店跡。そして麓には杣人の集落跡。川沿いのわずかな平地に現状集落が残っているという感じ、山中はその多くの行程が、杉・檜の植林地で、薄暗く眺望は全くない。中辺地など、よくもまあこんな山奥まで植林したものだ・・・・呆れかえるほどだった。でもその林業は地域産業として維持されているのだろうか?。吉野杉・尾鷲檜なんてブランドはあるけれど。

山間に残る集落も、その多くの建家が廃屋か空家だった。商店が一軒でも残っていれば良い方である。自分の住んでいるところがそうだから行けばすぐわかる。ここ限界集落でしょ。

峠を越え、集落に下りるたび・・・・心が沈むのだ。

見たくねえ。もうすぐ崩壊だよこの地域・・・・・。

でも 無くならないだろう熊野三山は

 

今回「猪垣」の時に書いたけど。昔の集落はまさに街道に沿ってもう少し高所にあったと思う。だから明治以降鉄路が伸びてきたり、海沿いの国道が伸びるにつれ、駅や道路に近いところに集落が移動してきた、と思う。

しかし現代になってみれば、狭い入江の集落の多くが一台分の駐車スペースも宅地の中になく・・・これだけで現代の若い家族が生活を営むにはハードルが高いと思う。就職や家族が暮らす家を建てるためもっと住みやすい土地に流失・・・するのが自然なんじゃないかな、仕事もなさそうだし・・・・・・悲しいけど。

今回途中で偶然銭湯跡、二箇所見ました。他の商店もそうですが、時代と共にいろんな職やお店がフェイドアウトするのは仕方ない。

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それで終わり、かよ。時代の流れには逆らうことはできない、のか。

でも、こんな新業態始めましたとか、ここならではの展開を模索してます、とか・・・・。なんか見せてくれよ三重・奈良・和歌山県民たち。

 

世界「文化」遺産である。それは密教寺院でもある吉野地区も入っている。また伊勢神宮からの道も入っている。つまり熊野古道はとんでもなく広く、長いのである。もちろん高野山も熊野三山ももちろん伊勢神宮もこの先残るであろう・・・・でも住民が生活道路として何百年も維持してきた「古道」を誰がメンテナンスしてくれて、未来へ繋げてくれるのか・・・・甚だ怪しい。

実際今回のルートは熊野三山から遠いこともあり、荒れている部分が散見された。

峠を歩き、集落に着くに連れ・・・・・気持ちが暗くなるのだ。この道管理してくれる人居るんでしょうか??。集落は維持可能ですか???この先何十年も続けられそうですか????。

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こんなこと指摘してもしょうがない。

コウダが期待したいのは・・・・・・「世界遺産登録」契機に地域との絡みというか「起こし」というか、テコにして地域の生きる場、新産業作れてますか。なにより我々のプライドはこれです!ということを見たかった。

それがほとんど見えなくて・・・・歩くほどに沈む縦走だったけど・・・・・。

前回の中辺地では、途中農家運営の茶店や、ゲストハウスなど萌芽が見えていた。

今回、最終日に移住した女性ガイドさんに出会えて。また古民家を移築してカフェを作る・・・という企業家の建家でお茶を飲んで・・・。ちょっとだけ「あるある」かも・・・と思い直している今日この頃です。

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↓ 最終日七里ガ浜から登る朝日を見る。未来が開かれるか?熊野?そして日光?

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