ここ数年毎年6月は、炭を担いで登山をしている。
奥日光の標高の高い地域で、樹木の白骨化・枯死が指摘されて久しい。首都圏由来の亜硫酸ガス等による酸性雨が原因と推察されているらしいが・・・・・。
この問題に取り組んでいる市民グループが、酸性雨による枯死を防ぐために、土壌中和作用そして樹木の活性化作用のある「炭」を撒く活動を続けてもう十数年になる。
年一回、二十人ほどが担ぎ上げる炭は100kgほどか。何千・何万ヘクタールある森のどれほどの役に立つのか・・・・・????。
私は、商売や工事を生業としている位だから、基本的に合理主義者だ。
最初この活動を聞いた時は、正直呆れた。誘われた時も、どんな奇特な人たちがやっているのか、という興味の方が強かったと思う。
二十年ほど前。夏休みは仲間と沢登りが恒例だった。ある時、増水した濁流に目の前で仲間が流され、寸でのところで助かった事があった。その時以来、私は信心に目覚め、山の神に畏怖を感じるようになる。
山に入る時は、お神酒をあげ、山の神に詫びを入れてから入山することにしている。 岩魚・山菜を少々分けていただき、たき火や一泊の床を取ることをお許し願うのだ。それは同行者にも強要させている。
最初に炭撒き登山に参加した時。炭を詰め込む時まで、このグループの「手伝いをしてあげている」思いしかなかったと思う。
2時間山を登り、弱っている樹木の多さに驚き、あれほど重く感じた炭の量の少なさに呆れ、己の力の微弱なことをまた嘆いた時・・・・・・・・・・・。
気がついたのだ。今まで「自然を守ろう!」と言い、「山の神にお許しを請え」と言ってきた自分が、亜硫酸ガスや炭酸ガスを出す一方で、何も山にお返しをしてこなかった!!ということを。
65リットル
のザックに詰め込んでもせいぜい10数キロ。最初は撒いたら、もう終わり??って感じで寂しかったんだ。
でも「結果を求めて」の欲はもう薄くなっている、気持ち的には「巡礼」という言葉の方が近いかな。
それでもね。私は最初から、自分の撒くエリアというのを決めているから、6年も続けていると、段々炭が根元に残っている木が増えてきていて。
(千里の道も一歩から・石の上にも三年)
って感じで。
継続していくことの力というか蓄積って大したもんだ、と我ながら感心している。
年一回だけど、登れる歳まで続けよう。
写真は流木で作られた炭。葉っぱの
下方に一昨年撒いた炭が残っていた。
コメント
そうだね~。ほんとに。
頑張ってね。・・・って、他人事かヨッ!?すんません。
皆がなんとなく「うぜ~親父ッ!」って思いつつも、いつの間にか
気がついたら自分もそうだった・・・A^^;)ってふうになるといいね。
ま、こちらの主様の場合「登れる歳」っつーのが、われら一般人の感覚からかけ離れてるのかもしれませんが・・・追爆!
私は今でも、仕事や家事などに対してそれなりに厳しい、ようです。職人や妻とも言い争いになる事も多いです。でも山に登ったり畑や動物を飼ったりしてみると、どうしようもない自然の生業も感じてしまいます。
頑張るけど、最後は自然に___。そんな風に受け止めるのが良いのかもしれません。
その分岐点は、「怒らないこと」と自分では思っています。腹の立つことはありますが、怒ってストレスを溜めないように___と心掛けております。