私の母校の北隣である小百小学校が来春閉校が決まり 寂しい思いだ。
私が生まれた旧今市市は、戦後 今市町に落合村・豊岡村・大沢村そして篠井村の一部が合わさって「今市市」が誕生した。現在の会社屋は今市にあり、生まれたのが豊岡、現在の自宅は落合、落合に来る前は9年大沢の借家、と旧町村をほとんど体験している。
しかしやはり生まれた旧豊岡村は一番故郷感が強い。
村唯一の豊岡中学校には、大桑小・小百小・轟小そして第二小の一部の生徒が入学してくる。私の時代の生徒数は一学年ちょうど100人だった。私は大桑小の出で、同年生徒数は36人。
小学生の時分。学習発表会という行事で、私は「地域研究」というのを発表した思い出がある。そのきっかけになったのは、布装丁の「豊岡村史」という本を図書館で見つけたことから始まる。
小学生の生活圏というは、狭いから隣の校区であってはもう別の世界だったから、集落ごとの紹介は面白かった。例えば「旧大谷川が流れているから石ころばかりの集落だ」とか7月初めに「八坂神社のお祭りが開かれて、天狗に扮した若者が・・・」とか。行ったことないが隣の集落を想像してワクワクしたものだ。
今でも覚えているのが村内の3つの小学校の児童数の変遷。
母校大桑小は、日光杉並木街道や鉄路が通っていることもあり旧豊岡村では中心地であったから、人口、児童数とも他の二校より多い。
しかし、その児童数が、北隣山裾に近い今回廃校になる小百小に負けている年があるのだ。
概数だけど、大桑小350名 小百小400名 位だったと思う。
私が通った昭和40年代は280名位だったから、それと比べても結構多い児童数だ。なぜに????
小百小に400名以上在籍していたのは、昭和20年のデータだった。
つまり
敗色濃くなった太平洋戦争で本土空襲も始まり・・・・・・・・疎開の児童が激増した年である。
廃校
小百に生まれ育ったOBは、この日が来ることを覚悟していたはずだ。申し訳ないが限界集落として対応が求められる集落なのだ。
ただ未だ存命の方も多いと思われる昭和10年前後の生まれで、疎開で小百小に通われた体験がある方の多くはこの成り行きは知らないだろう・・・・・と思われる。
廃校は止められない。
でも疎開した人たちに・・・・自分が通った小学校が廃校になる ことを知らせる方法はないものか、と思うのである。
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