常連さんならご存知。何時だって一石二鳥・・・一粒で二度美味しい路線追求のコウダですから。
平日仕事で富山に行っても、それだけで帰ってきません。初日は午後1番から工業会の総会。二日目は、10時から各社のデモンストレーションですので、狙いは二日目早朝から10時までですよ。本当は夜に美食散策をしたかったのですが・・・・懇親会のため諦めました。
午前5時起床で、ちょっと歩いて富山城へ。こちら加賀藩の支藩みたいで、つまり前田家分家ですな。歴史からして何となく地味な感じです。城も昔から残っているのは石垣だけみたいです、で実際地味なのですが・・・・・・結構これも面白いのですよ。
マニュアックな石垣探訪です。
石垣積み、というのは日本においても、それこそ古墳からニ千年の歴史があるのです。
火器つまり鉄砲が伝来して、防御のための城も飛躍的に頑丈になりました。そうした戦国時代の城は当初は、攻めるに難しい山の頂上に築かれたのですが。戦時はともかく平時には、高い所に居ては領地経営や生活に負担が多く、城は段々平地に降りてきます。
城下町経営(政治)と防御の拠点としての城は、平地であっても要塞機能を持たせるために、高い石垣や水を張った堀に囲まれるようになります。
そんな城の歴史の中で「あのう衆」という職能集団が日本の歴史に出てくるわけですよ。つまり地震が多く、雨が多い日本において、強固な石垣を積み上げる「プロの」職人集団がいたということなんですな。
でもこれは、ここが「あのう衆」の造作だ。というのがはっきりしてないんですね。
城の石垣というのは、形状だけ見てもいろいろあります。石と石の目地がカミソリ一枚はいらないんじゃなかという精緻な石組みもあります。
本家の金沢城は「あのう衆」一派が作ったと言われている様のなのですが・・・・・
富山城石垣は・・・・なんか大分積み方が違うのですよ。一言で言えば「ラフ」。
富山城は戦国時代の要塞でなく、徳川泰平期の、前田家の隠居あるいは分家城なので、こうした「手抜き」石垣になったのでしょうか????。
石垣って登るに大変。登るが良いが、上から熱湯が降ってくる、というイメージですが。少なくても富山城石垣は、私でもノーザイルで登り切れますね。なんか本家金沢城と大分違うように見えるのですよ・・・・・。このあたりごんじの方いれば、教えてください。
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