昭和30-40年 電話が入っている家は少なかったんだよ

TOWN

本日は月始め・・・・つまり商売人としては、先月末締めの請求書をつくる日でありまして、そのためにタコ社長は在社してデスクワークなのです・・・・・。でも銀行記帳を済ませて先月の入金を確定すれば、あとは販売管理ソフトがやってくれますので、大した作業量ではありません。

それよりも・・・・先週末から、来客多く、見積が溜まっておりまして・・・おそらく新記録。今日は7件の積算を完了したのです。これって一日の新記録かも・・・・・。

ストーブはこれから積算する設計上の概算見積が多くあまり難しくありませんが、外構工事は、部材、工程が多いので、時間がかかります。

といっても、デスクワークだけ、というわけにもいかず、現場チェックに向かったり、新たに現地調査に呼ばれたり・・・・・・とブログネタの写真を撮る暇もなかった・・・・・・(*´・ω・`*)グスン。

 

で、今日のワンショットは、昨日栗山村・茅葺き古民家へ行った時のショット。

昔は集落に☎入っている家が少数だったんです。

斯く言うコウダの生家は、集落外れで・・・組内は6軒。その中で☎を引いている家はウチと電鉄会社に勤める家だけ。ウチは商売してましたから電話導入は村でも早い方でした。昭和30年-40年ってそういう時代でした。というか、そもそもダイヤル直通でなかった。遠距離通話は、電話局の交換士を呼び出して繋いでもらったんですよ。

「市外局番○○○○の○○○○番お願いします」ってね。

若い方、信じられないでしょうね。

 

それでも・・・・電話が普及しきれてないので

「呼び出し」というのがあるんです。

つまり電話のない隣家を「呼んでくれ」と電話が入る。

隣といっても100m以上あるので、少年コウダは、少しでも早く繋いであげたいと走り、隣人を呼びに行きます。

でも小学生は走れますが、隣のおばさんはそうは走れないので、電話口にたどり着くまで10分ぐらいはかかるでしょう。

当時は遠距離電話ってとっても高かったのです。それでも「繋いでくれ」というのはよっぽどのこと・・・・。

そうした「高い」電話代を払っても「繋いで」欲しいというのは、当然緊急性が高く「おばさんが亡くなった」とか「危篤だがどうしようか」。

って、60歳より若い方・・・・都会暮らしの方。わからない話かもしれませんが。

現在「電報」なるものがそうした緊急性のコミュニケーションを補うものとして使わているとは思いませんが。

当時はドラマでも出てきますね。

「チチキトクスグカエレ」というのは当たり前にあった時代なのです。

 

そんな時代、おそらく集落で数少ない電話所有者として、多くの地域住民と共にその文明の利器を皆で共有・活用した歴史があったであろう「証拠」が目に入ったのですよ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました